うつからの脱却

どこかの本で読んだ言葉たちをメモにまとめてたので、書く

著作権上問題があったら教えてください

たぶんこの辺りの本からの引用

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消えたい: 虐待された人の生き方から知る心の幸せ (ちくま文庫) | 和巳, 高橋 |本 | 通販 | Amazon

Amazon.co.jp: 地平線を追いかけて満員電車を降りてみた 自分と向き合う物語 eBook : 紀里谷和明: 本

 

 

 

「今日も呼吸をして、なんとか生き延びた」というただそれだけのことに、満足を感じるように自分に言い聞かせること。

 

朝少しだけ早く起きられたこと、夕食の唐揚げが美味しかったこと、たまたま引っ張りだしてかけたCDが素敵だったこと、そんな、本当に些細な事に集中して、生きることに意味があるのだと思いこむことにしました。

この考え方を1ヶ月も続けていると、少しずつですが、自分を認められるような気がしました。

 

充実感のない仕事だけはしたらあかん

 

 

 

理想と現実にギャップを感じ、そのギャップを乗り越えるだけの気力が無くなった時、人は鬱状態に陥る

 

理想と現実のギャップを否定し続けるか、認めてギャップを埋めるように考えるかで、鬱になるか否かが決まる

 

自分に素直に、「あぁ、そうか、俺はまだまだショボかったんやな。」と思えたならば、そのショボさ故のギャップを受け入れ、気持ちを切り替えてまたイチから頑張れる

 

どうしても埋まらないギャップを認めないでいると、実力がバブルなのに「バブルなんかじゃねー!」とそれを認めないでいると、いよいよ鬱になる環境が整います

 

鬱なんて自分が持っている理想と、目の前で起きている現実とのギャップに苛まされて起きているだけのことで、そのギャップを辛く感じるのであれば、そんなギャップは無くしてしまえばいいんです。つまり、現実を上げるか、理想を下げればいい。

 

理想を下げられないのは「プライドが高いから」

高すぎた理想を壊して、プライドを捨てます

 

プライドを捨てることは、人生で一番難しいことの一つなんじゃないでしょうか。
結果的に理想を下げても良い心理状態にもっていく方法がオススメ

 

理想の姿を追い求めるのではなくて、今生きていて活動している一つひとつを賞賛し、それらを積み重ねる

 

 

そういった地味とも思える行動の積み重ねには目を向けず、ちょっとした成功体験から調子に乗って、分相応でない、アホみたいに高い理想を掲げ、それを達成できなかった時に人のせいにして鬱に陥るという、まぁつまりは私の中だけで起こっていた自爆行為であることに気づかされたのです

 

周囲からの評価など、他人の目を気にして無駄に高い理想を創り出してきた自分。

結局、何かと比較して自分の立ち位置を確認し、悦に入り、それを自分の中の精神的支柱にしてしまっていたんです。相対的な幸福なんて、虚無以外の何物でもないのに。

 

まずは今目の前で、自分が起こしている小さなこと、これを積み重ねていきます。それが質実剛健な実力をつける道だし、それだけでも認めてくれる人が居るんだから、その歩みでぜんぜんいいじゃんか、と、こう考えていきます。そうすると高い理想を下げることができる心理状態になっていきます

 

 

「なんで鬱にならんかったんですか?」という質問をすると、

O氏:「私はほんまに目の前のことしか見えとらんバカやからと違いますか?」

と。それって鬱から脱却していく時に使う手法だ!と思っていると、続けて

 

O氏:「遠くを見て、そこまでの道のりを計算してるとしんどいでしょ。私はバカだから、目先のことしか見えとらんのですよ(笑) 人間なんて、なんかの拍子にポンと生まれて、みんな確実に死にゆくだけ。この世に生まれてきた意味なんて、たいしたものはないんちゃいますか。」

 

そう自嘲気味に話すO氏は、全くのブレを感じさせず、凄まじいオーラを持っていて、今を全力で生きる、魅力的な男です。そんな彼の生き方に、真の豊かさを感じます

鬱になり、もがいて、復活して、いろいろ考えた結果、鬱は創造的自己破壊だと思った | 村長ブログ

 

 


心の中で起きていることは、たいてい同じのようです。こうあるべきだ、こうあって欲しい、と考える理想と、目の前に突き付けられた現実にギャップを感じ、そのギャップが大きすぎるとか、小さくても許すことができない状態で、そのギャップを乗り越えるだけの気力が無くなった時、人は鬱状態に陥る。メカニズムとしてはこれだけのことだと。となると、誰しもなり得る病気だと思いませんか?

 

ではなぜ、理想と現実のギャップが起こるのか。

今思えば、今思えばですよ、鬱で苦悩していた当時に持っていた理想像なんて、その中身はスッカラカンでした。実力を伴っていないですから、そんなもんは理想と言うよりただの願望でしかありませんでした。

 

私だけでなく、鬱になって乗り越えた友人たちも、異口同音です。

 

ではなぜ、そんなスッカラカンの理想が構築されるのか。
それは、幼少期からの教育の賜物か、理想を高く据えることを要求され、それが自分の中根付いていくことが一因だと思っています。

 

生きていく上での所作・思想の一つひとつまで、親からか、先生からか、いつの間にかそういう刷り込み暗示にかけられて、自分の中で理想の姿がどんどん成長していきます。基本的にはそれで良いと思っています。

 

また、幼少期から勉強やスポーツができる人ほど、自分の中の理想像もどんどん成長していきがちです。だって、なまじっかできちゃうもんだから。

 

そして、理想像を高く据えることで自分の実力が上がり、良い経験を積めるようになります。自分は充足感に満たされるし、それはそれで素晴らしいことです。しかしそうなってくると、周囲はさらなる期待を寄せるようになるものです。そして、自身もそれにも応えようとします。

 

幸か不幸か、人間は一旦は行きすぎる思考をする生き物なんですよね。

「お前はもっとできるんじゃないか?」
「そうだ、俺はもっとできる。」
「私の実力はまだまだこんなもんじゃない。」

 

こうして、何かに成功すると、それまでよりも高い位置に理想の姿を置くようになります。

 

しかし、その成功が、自分の実力によるものかどうかはわかりません。もし周囲が相対的に下がったことによる成功だとしたら、結局自分は何も実力がついてなかったりもするんです。また周囲に助けられた結果だったのかもしれません。そもそも、自分一人の力なんてちっぽけですから。

 

だけどそんな中で理想をさらに高く置いてしまったら、理想と現実のギャップはより大きくなります。つまり中味がスッカラカンになるということです。バブル経済みたいなものかもしれないですね。あれも人間の思考が調子に乗って行き過ぎた結果創り出されたもの。バブルはいつか崩壊します。ただの泡ですから。

 

さて、この時に何かのキッカケで、理想とはかけ離れた、衝撃的な現実を突き付けられたとします。

ここが重要ポイントです。

 

ここが鬱になるかならないかの分かれ道です。
その理想と現実のギャップを否定し続けるか、認めてギャップを埋めるように考えるかで、鬱になるか否かが決まるんです!たぶん。

 

自分に素直に、「あぁ、そうか、俺はまだまだショボかったんやな。」と思えたならば、そのショボさ故のギャップを受け入れ、気持ちを切り替えてまたイチから頑張れるかもしれません。自らの実力がバブルであることに気が付けば、自分でバブルをくしゃっと壊して、再建できるんです。

 

だけど、理想を崩さず、そのギャップを受け入れなかったらどうなるのか。

「俺はこんなに頑張っているのに!」

 

高い理想と衝撃的な現実の、どうしても埋まらないギャップを認めないでいると、実力がバブルなのに「バブルなんかじゃねー!」とそれを認めないでいると、いよいよ鬱になる環境が整います。つまり、鬱のスタンバイ状態に入ります。

 

このスタンバイ状態は、傍から見るとケアレスミスを繰り返したり、簡単な短期記憶ができなかったり、ちょっとした思考でもミスを犯すようになります。たぶん。私の経験上。

 

 


鬱なんて自分が持っている理想と、目の前で起きている現実とのギャップに苛まされて起きているだけのことで、そのギャップを辛く感じるのであれば、そんなギャップは無くしてしまえばいいんです。つまり、現実を上げるか、理想を下げればいい。

 

だけど、精神的に頑張れない時に、それ以上現実の自己レベルを上げることは難しい。であれば、理想を下げればいい。

 

理想を下げたところで、餓死するような現代日本じゃないです。いつまでこの豊かさが続くか知りませんが、少なくとも今すぐに餓死するようなことはありません。だから、死んじゃうわけじゃないんだし、何か理想と現実のギャップがあったら、理想を下げればいい、と今の私は思う。

 

なんだけど、幼少期から擦り込まれた理想がプライドを高めてしまうから、こうあるべきだ、と強く思った理想はなかなか下げられない。理想を下げられないのは「プライドが高いから」という言葉が、私にはフィットします。

 

冷静に考えられたなら、「このギャップは私の力不足に起因していたんだ」「そっか、そんなに高い理想を持たなくてもいいのか」という結論

 

自分で理想と現実のギャップを無くすことができなくなるから、鬱になる。だから周囲の環境に依らず、自身を健全にするには、やはり受け止め方を変える、自分の中の思考を変えるということが根本だと思います。

 

ある程度の休養が取れるようになると、ここからが大仕事です。いよいよバブルで積み上げた実力のスッカラカンさを認め、高すぎた理想を壊して、プライドを捨てます。

 

この「高すぎた理想を壊して、プライドを捨てる」という工程を行わず、いつまでも他責に終始し、逃げるだけで終わってしまうと、また環境が悪化した場合に再度鬱になる可能性を残すことになると思っています。

 

 


だから「プライドを捨てる」というのは、とっても大事な工程なんですが、しかし、「プライドを捨てる」って難しいんですよね。プライドを捨てることは、人生で一番難しいことの一つなんじゃないでしょうか。

 

なので、「単純にプライドを捨てて理想を下げる」というストレートな方法ではなく、「え?こんなんでええの?」っていうことをゼロから積み上げ、結果的に理想を下げても良い心理状態にもっていく方法がオススメです。

 

理想の姿を追い求めるのではなくて、今生きていて活動している一つひとつを賞賛し、それらを積み重ねる。

 

 

 

プライドの捨て方

~それまで自分が抱えていた理想を一旦置いといて、自分にできる、小さなことを積み重ね始める~

 

とまぁ、抽象的な表現だけでは、よくわかりませんよね。なので、実際私が立ち直っていった具体的なキッカケを使って説明してみます。

 

当時何年もかけて一生懸命に取り組んできたことを全否定され、だけどプライドを捨てることができず、理想と現実のギャップが大きかった当時は、精神が混乱し、思考がまとまらず、多くの友人に迷惑をかけていました。

 

それまでの私は、そういった地味とも思える行動の積み重ねには目を向けず、ちょっとした成功体験から調子に乗って、分相応でない、アホみたいに高い理想を掲げ、それを達成できなかった時に人のせいにして鬱に陥るという、まぁつまりは私の中だけで起こっていた自爆行為であることに気づかされたのです。

 

周囲からの評価など、他人の目を気にして無駄に高い理想を創り出してきた自分。結局、何かと比較して自分の立ち位置を確認し、悦に入り、それを自分の中の精神的支柱にしてしまっていたんです。相対的な幸福なんて、虚無以外の何物でもないのに。

 

「それってさ、それまで自分が抱えていた理想を捨てて、自分にできる、小さなことを積み重ね始めたことで、鬱から脱却できた、ってことじゃない?」

って抽象的なことを言うたら、目を細めて何度も頷いてはりました。

 

他にも鬱経験者何人かに同じ質問をしてみたところ、たいてい同じような反応でした。
たぶん、そういうことなんやと思います。

 

 

水を飲める、すごい

 

いきなりストレートに理想を下げることは難しいから、まずは今目の前で、自分が起こしている小さなこと、これを積み重ねていきます。それが質実剛健な実力をつける道だし、それだけでも認めてくれる人が居るんだから、その歩みでぜんぜんいいじゃんか、と、こう考えていきます。そうすると高い理想を下げることができる心理状態になっていきます。徐々に、徐々に。

 


人は生きてたらいつかコケるんやから、それに備えて人助けしておきましょう。コケた時に一人ぼっちって、ほんまに死にたくなるよ?

 


実際に鬱になって身を以って体験しましたが、悔しい現実を受け入れるためには、それまで固定化してきた自分の概念を壊す必要があります。2年ほど前からYouTubeでアップされている「鷹の選択」というフィクション動画のように、長い年月をかけて作ってきた自分の姿を、一度投げ捨てる必要があります。

 

そうしてプライドを捨てて、空虚な理想を壊して、着実に積み上げたもので力強く生きていく。