抜群に面白かった。
Amazon.co.jp: 三国志 ~司馬懿 軍師連盟~を観る | Prime Video
ROME以来の抜群の面白さ
ただ、このブログの人曰く、
「瑯揶榜 ~麒麟の才子風雲を起こす~」の方が面白いらしい
次はこれを見たいと思う
【華流】]おすすめの中国ドラマ~2022年3月現在~ - 韓流・華流日誌
司馬懿 軍師同盟は、
司馬懿の次男の司馬昭(211年)が生まれたところから物語が始まるから、司馬懿が32歳の時だな。
時は後漢末期で、董卓が帝を殺害して、帝の弟の劉協(献帝)を擁立(189年)。
その後、董卓は配下の呂布に殺され(192年)、曹操が献帝を迎え入れて曹操の傀儡となる(196年)。
曹操は袁術・呂布・劉備といった群雄を次々と破り、中原を制圧。袁紹を官渡の戦いで破り、河北を平定(200年)。赤壁の戦いで孫権に大敗(208年)。馬超を破って関中を平定(211年)。
司馬懿 軍師同盟は、ここから物語が始まる。
後漢に仕えていたが、実質的に後漢を丞相(君主を補佐する役職)として支配していた曹操の支配下になる。
司馬懿は、まだ仕えておらず、ひっそりと生きてる。
司馬懿は、曹操に才能を見出されてしまい、自分の配下になるように勧誘を受ける。
しかし、足を自ら折って、無理と断る。
その後、曹操に仕官することになり、うまくやっていく。
曹操の五男の曹植と、その参謀の楊修に陥れられそうになりながらも、
ちなみに、この時点では曹操の役者の于和偉(ユー・ホーウェイ)の演技力が半端ない。こちらが主役で良いんじゃないかとずっと思ってた。
曹操が死んでから、曹丕が主役っぽい時は、少し中だるみしてしまった。
曹丕と曹植の権力争いは、最終的に曹丕が勝って、次のトップは曹丕がなることに。
曹丕の妻(甄宓(張芷溪(チャン・ジーシー)))は、袁煕の元妻。甄宓と曹植が相思相愛なことが曹丕は気に入らない。
曹丕に疎まれて、二人の息子(曹叡)が5歳の時に、甄宓は曹丕に追い込まれて自害させられる。このことが終生、曹叡に恨みを抱かせる。
義妹というのはこのドラマ内だけの設定。
郭照が曹丕の正妻(皇后)になるが、曹叡が皇帝になった後、恨まれていた郭照は曹叡に殺される。『魏略』や『漢晋春秋』にもそう書かれているらしい。
曹丕が崩御したあたりから、司馬懿が頭角を表して面白くなってくる。
このドラマは、司馬懿(呉秀波 ウー・ショウポー)と、曹操の演技が秀逸。
曹丕が皇帝になった時に、司馬懿の監視役として、司馬懿の側室になった柏霊筠(張鈞甯 チャン・チュンニン)はとても美人。
柏霊筠と、甄宓と、曹爽の妻の蒹葭(鄧燕歌 トン・イェンコー)が美人。
侯吉(司馬家の台所係)がとても良い味を出してる。後半は愛着が湧いてくる。
汲布が朝廷の情報を司馬家に渡して助けてくれる。過去に張春華と関係があったっぽいが何があったのかは最後まで分からず。
侯吉と汲布は、このドラマ内で創作された人物。
ただ、表向きは曹芳の従順な部下を演じてる。
最後の5話くらいは、ヨボヨボどころか、死にそうな司馬懿が出てくるから、ちょっと見ていて辛い。
曹丕が皇帝の時は、曹操の甥(曹丕のいとこ)の曹真と、司馬懿が対立する。
曹叡が皇帝の時も、曹真と対立。
曹芳が皇帝になると、曹真の息子の曹爽と対立。
最終的には、司馬懿が曹爽を三族皆殺し(7000人)にした。
兄の夏侯玄も三族皆殺し(3000人)にした。
夏侯玄の母は、曹真の妹。
夏侯玄の父は、夏侯尚。夏侯尚の従父が夏侯惇。
曹爽の参謀の何晏が後半は、悪い役。
何晏の妻は、曹操の娘(金郷公主)らしい。ドラマ内でこのことに言及はない。
けっこう若い設定。見た目は司馬昭の同級生。
宦官もちょくちょく出てくる。
基本的には、攻めずに、軍略の戦いという感じ。
劉備も出てきたらしいが覚えていない。
孫権は少しだけ出てきた。
司馬懿が呉に行って、交渉するという場面があった気がする。
ちなみに、1里は500mらしい。
8日で1200里(600km)は、1日80kmの移動か。
時速5kmで16時間の移動。時速5kmは早歩きの速度らしい。これは辛い。
238年9月 司馬懿が公孫氏を討伐
6月 帯方郡に到着
12月 洛陽に到着、曹芳に謁見
240年1月 洛陽を出発
6月 帯方郡に到着
7月 九州に到着
魏が王に任じたのは、親魏倭王の卑弥呼と、親魏大月氏王(クシャーナ朝)の2国だけらしい。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2281
238年に遼東の公孫淵が起こした反乱。司馬懿(59歳)が鎮圧した戦。
それまで邪馬台国は公孫淵に朝貢してたのが、魏に変わったということみたい。
卑弥呼が女王になったのは、「倭国大乱」後の180年頃。13歳で女王になる。
魏に使節を送った239年時点では70歳超え。
倭から使者が来たのが、「魏志倭人伝」には景初2年(238年)と記載、「梁書」と「北史」には景初3年(239年)と記載、「日本書紀」には神功皇后紀39年(明帝景初3年6月)と記載。
卑弥呼の使者は12月に洛陽に到着したらしい。
西暦57年と、107年にも、邪馬台国から漢に朝貢してたんだな。
邪馬台国と卑弥呼は、この当時(239年)、普通に国家として成立してたっぽい。
https://nihonkodaishi.net/knq/22mar/age_of_yamatai-koku_part_2.html
ちなみに「邪」や「卑」という文字をあてているところから見て、
これは自称ではなく、中国側が付けた名前なんだろうな。
ただ中国語では卑弥呼は「ひみこ」という音ではないから、実際は日本で何と呼ばれていたのか気になる。